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        私の「ぜいたく」

わが家の南側は公園である。広さ五百坪ほどだが、訪れる人で毎日けっこう賑わっている。 

朝十時を過ぎると、まず、入園前の幼児たちがやってくる。側に寄り添う母親たちともど

も、毎回、見慣れた顔ぶれだ。シャベルを片手に、可愛い瞳を大きく見開いて、砂の形を思

いのままに変えていく。誰もが立派な砂の芸術家である。

 少し遅れて賑々しくやって来るのは、近くの幼稚園の園児たち。彼等は先刻、ぶらんこで

遊んでいたかと思うと、いつの間にかジャングルジムにぶら下がっている移り気屋さんだ。

芽生え始めた好奇心や育まれつつある身体能力の本能的発露にちがいない。引率してきた若

い先生たちの甲高い掛け声が、折節に、辺りに響く。

 平日も午後三時を過ぎると、そして休日には朝早くから、近所の小学生たちもやって来る。

公園を囲んで植えられた数本の樫の木の間に、ツツジ、キンシバイ、アジサイなどの低木が

植え込まれていて、彼らはそれらを利用した鬼ごっこや隠れんぼが大好きだ。これは芽生え

た仲間意識の証だろう。

 毎年、これら低木が派手な装いを見せる季節が来ると、数はそれほど多くはないが、昆虫

たちも仲間に加わってくる。アブラゼミやモンシロチョウなど。皆、私の大切な「幼友だち」

だった。

ある日、すぐ近くのつつじの木を前にして、白と黒の帯模様の長い尾部の特徴がある鬼ヤ

ンマを見て驚いた。少年時代、近くの砂利穴の池の淵で、音も立てず、目にも留らぬ速さで

羽根を動かし、空中に静止しているあの雄姿である。カブトムシとともに憧れの昆虫だった。

居間のガラス戸越しに、私は金縛りにあったように身動きできず、じっと息を凝らして見

入る。しばらくすると、何処ともなく飛び去って行った。

最近、家に居ることが多くなった私は、飽きることなくそんな様子を眺め入る。幼い頃の

出来事が数々と思い出されて、すっかり童心気分に戻る。若木のように、生を謳歌する彼ら

の溌剌さは、年輪を重ねた私に幼き日の活力が蘇ったような錯覚を与えてくれる。

いつの日からか、彼らの来園を心待ちしするようになっている。雨天などで姿が見えない

ときは、何かとても寂しい気分になる。

やれ、子供の数が減ったとか、子供たちの遊ぶ姿を見掛けなくなったと嘆く昨今のご時世

に、こんな公園の眺めを独り占めしている私は、つくづく「ぜいたく」だと思っている。 

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